“Day by day, in every way, I’m getting better and better.”
「日々に、あらゆる面で、
私は益々よくなってゆく」
クーエの有名な暗示文です。
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あたしには末期がんの父がいる。
「余命一年、いえ、半年から一年です」
胃がんの手術をしたのだけれど、もう肝臓に転移していて、
もう何もできることはないそうだ。
そう宣告されてもうすぐ一年経つ。
かつて母に暴力をふるい、小さな体の割りに強力な腕力の持ち主だった、
強くて厳しい父はもういない。
今はもう何をしゃべっているのかすらわからないし、もうずっと笑っている。
あたしが高校入学する一週間前、
仕事の荷物を急いで届けた帰り道、
父のミスで車での事故を起こした。
大きな事故で、こちらの車は大破損。
母はあたしをかばい大怪我、
あたしは鞭打ちで済んだのだけれど入学写真はギプス姿だった。
一番ぴんぴんしていた父が一番重症で、多発性脳梗塞と診断された。
彼は右側に大きな損傷を受けていたので、左側の視覚情報を処理できない。
見えてはいるのだけれど、わからないのだ。
左手と左足だけを消した塗り絵の様なカエルの絵をみせられ、
どこが足りませんか?と聞かれるのだけれど、
何度も何度も必死で見た挙句、情けなそうに「ははは、」と笑う、
父が忘れられない。
プライドの高かった父の事だ、あたしの前でだけは絶対に見せたくなかった姿だろう。
ちなみに、幸い相手の車は損傷もひどくなく、軽症だったようだけれど、相手が悪かった。
大阪の個人タクシーの運転手だった。
「男の約束」と言われてしまうと弱かった父だけれど、
「軽症だったんでしょう?もう必要ないのでは?」
と言ったらしいが、
「怖くて道が走れないもん!だから仕事ができないんだ!」だのなんだとのたまう事故相手に、
結局言われるがまま借金をしてまで数千万という金額を払った。
事故を起こす前、私たちはバブルの崩壊の時期に事業投資したのがたたり、
大きな借金を抱えていて貧しかった。
車などの保険等も解約したばかりだったらしく、
20年かけた車の保険のすら解約し、なんとかバブルでの投資の借金も
返しおえた直後のこの事故。
あたし達はまた、莫大な借金を抱えることとなった。
何かが、全てにおいて不幸だった。
困ったのは、脳梗塞なので、毎日点滴をしなければいけないという事実だ。
田舎だったので設備がなく、また家業もすぐにやめるわけにいかなかったので、
どうしても誰かが車に乗る必要があったのだけれど、
まともな運転免許をもっているのが父だけだったのだ。
結局、あたしは高校が終わると急いで家に帰り、父の横に座り、
左側に寄りすぎていないか、何か父に異変は無いかと常に注意をしながら、
毎日数時間の病院での点滴、何箇所にも渡る外回りと全て一緒に行動した。
ある日、仕事先から車に帰ってきた父が、細い電灯の柱に左腕を絡ませてしまい、
自分でとれずにもがいていた。あたしは慌てて駆け寄るのだけれど、
自分でやりたいらしく、もがいていたが、どうやってもとれない。
そして悲しそうな、困ったような、情けない笑い顔で、
「とってくれないか」と小さくあたしに言った。
あたしは父の前でできるだけ笑い、おどけ、できるだけ病気の事を考えない話をした。
友達との時間も、クラブも、バイトも、遊びも、関係なかった。
彼は左側が見えているのだけれど認識できない。
ご飯だっておかずだって左側半分は残してしまうので誰かが回してあげなければいけないし、
服も自分で着ようとすると絡んでしまうので着せてあげる。
情けなそうに笑う父にあたしは、毎日必死でおどけてみせた。
貧乏は底の底までいっていた。
主収入であった家業の仕事の能率は確実に下がっていたし、
なにより事故相手から法外な請求が半年以上続いたからだ。
食べるものも本当になくなっていた。
この時代に、食べるものが本当になかったのだ。
当時マクドナルドで働いていた長男が、ゴミ分別の際、
廃棄処分になったまだきれいなバーガーを、大量にゴミ袋に入れて拾ってきて、
家族で夕飯として毎日食べていた。
本当に毎日、家族で兄が持って帰ってくるゴミ袋を漁り、
冷めてぺちゃんこになったバーガーを、黙って食べていた。
あたしは学校ではお昼ご飯を食べず、
「ダイエットしている」と言っていたし、
テレビは壊れていたけど直すお金も無かったので、
学校でTVや流行の音楽の話が一番つらかった。
そして借金取りが毎日の様に来るようになる。
無粋にドンドンと窓を叩かれ、大声で名前を怒鳴られる。
家族が息を潜め、暗い部屋の中で呼吸音だけがこだまする。
あたしが少しでも動こうものなら母親に小声で怒鳴られるのだ。
「ばか!居るのがばれたらどうするの!!!!」
ここは、あたしの家ではなくなっていった。
やがて父の脳梗塞の症状は安定していく。
素晴らしいもので、欠損した脳梗塞部分の脳細胞は二度と生き返らないが、
その周りの脳細胞が補うらしく、リハビリも効果を出し、
彼は自分で服を着、ご飯もまわさなくても食べられるようになっていった。
その頃からあたしはバイトを始める。
あいかわらず貧乏だったけれど、やっと高校生らしい生活ができる様になっていった。
だが借金取りが怖かったあたしは、学校が終わった後からすぐ、夜の10時まで働いていた。
だから高校生としては十分な、月12万という額を貰っていた。
だがその生活も長くは続かなかった。
父がバイト先に不意に現れ、あたしのキャッシュカードを持っていくようになった。
あたしは父が現れただけで意図を察したし、不機嫌な顔でキャッシュカードを差し出した。
だが、たまの休みに友達と遊びに行こうとすると、
母に「たまには家に居なさい!!」と怒鳴られ、靴を隠された。
借金取りがくるからと忍び足で暮らし、真っ暗で、
ハンバーガーのゴミが散乱する陰湿なこの家に居ろというのだ。
我慢できず窓から裸足で逃げ出したら、
今度は窓にかなづちで釘を打たれた。
あたしは泣いて出してくれと頼んだけれど、
結局学校とバイト以外は出してもらえなかった。
ますますここは、あたしの家ではなくなっていった。
あたしは逃げ出したくて逃げだしたくて仕方なかった。
そして今の彼氏、もう付き合って今年で8年になるのだけれど、
今の彼氏に頼んで、同棲してもらった。
事情は恥ずかしくて話せなかった。
ただあなたと一緒に居たいとか何とか適当なことを言ったのだと思う。
そして彼は家賃補助の出る仕事を探し、あたしの望みを叶えてくれた。
TVが見れて、お風呂にいつでも入れて、電気をつけても怒られなくて、
誰もあたしを怒鳴らないし、ゴミのような冷たいバーガーを食べなくてもいい。
借金取りも来ない。
ここはなんて幸せなんだ!!!!
新生活の幸せはそんなレベルだった。
あそこは、実家は、もうあたしの家ではないと思っていた。
そんな家出にも似た出来事から数年後。
そんな父と母は相変わらず借金を重ねていた。
親戚中にも借りたらしく、額は軽く高級車が買える値段だ。
葬式やら何やらの際にあたし達一家がのけものにされるのも仕方ないのかもしれない。
みんな言った。もう無理だ、借りるな。自己破産しろ。
でも父は言う。「土地を守らねば。自分の代で潰すわけには行かない」
あたし達は何度も反論するのだけれど、そういった固定観念には宗教じみたものさえあり、誰の意見も聞き入れようとしなかった。
あたし達は、もう言うのさえ疲れてしまった。
そしてあたしが家を出て6年後、やっと、やっと自己破産してくれた。
その間つぎ込んだ金額を思うと頭が痛いが、
最期まで父は土地がとか代がとかに拘っていた。
家も売り、土地も売った。
昔は豪邸と呼ばれた、和洋折衷で独特な建築の家だった為、田舎の割りにすぐに買い手がついた。
あたしたちは柱に刻み込んだ成長の後なんかを写真にとって、
家族は実家から30km程はなれた、家賃2万のぼろ屋に引っ越した。
そしてそれから1年後。
父は胃がんになり入院する。病状は極めて悪く、手術する前から難しいといわれていた。
父には胃の調子が悪いと皆が説明していたが、手術をする前日、誰が告知するかでもめた。
結局誰もできず、先生に頼み込んで、告知してもらった。
彼は淡々と
「あなたは胃がんですが、手術すれば治ります。がんばりましょう」 といった。
父は小さな声で、「胃がん・・?胃がん・・・」 とだけ言った。
手術はある意味成功した。そして肝臓への転移が見つかる。
先生は手術室の隣の部屋で、
生まれてはじめてみる父の臓物を広げてあたし達に見せながら、
「もうこれ以上は無理です」と言い切った。
「もって一年、いえ、半年から一年です」
そしてそれからあたし達はずっと父に、
「がんは治ったんだよ!」と笑顔で嘘をつき続けている。
「余命一年、いえ、半年から一年です」
胃がんの手術をしたのだけれど、もう肝臓に転移していて、
もう何もできることはないそうだ。
そう宣告されてもうすぐ一年経つ。
かつて母に暴力をふるい、小さな体の割りに強力な腕力の持ち主だった、
強くて厳しい父はもういない。
今はもう何をしゃべっているのかすらわからないし、もうずっと笑っている。
あたしが高校入学する一週間前、
仕事の荷物を急いで届けた帰り道、
父のミスで車での事故を起こした。
大きな事故で、こちらの車は大破損。
母はあたしをかばい大怪我、
あたしは鞭打ちで済んだのだけれど入学写真はギプス姿だった。
一番ぴんぴんしていた父が一番重症で、多発性脳梗塞と診断された。
彼は右側に大きな損傷を受けていたので、左側の視覚情報を処理できない。
見えてはいるのだけれど、わからないのだ。
左手と左足だけを消した塗り絵の様なカエルの絵をみせられ、
どこが足りませんか?と聞かれるのだけれど、
何度も何度も必死で見た挙句、情けなそうに「ははは、」と笑う、
父が忘れられない。
プライドの高かった父の事だ、あたしの前でだけは絶対に見せたくなかった姿だろう。
ちなみに、幸い相手の車は損傷もひどくなく、軽症だったようだけれど、相手が悪かった。
大阪の個人タクシーの運転手だった。
「男の約束」と言われてしまうと弱かった父だけれど、
「軽症だったんでしょう?もう必要ないのでは?」
と言ったらしいが、
「怖くて道が走れないもん!だから仕事ができないんだ!」だのなんだとのたまう事故相手に、
結局言われるがまま借金をしてまで数千万という金額を払った。
事故を起こす前、私たちはバブルの崩壊の時期に事業投資したのがたたり、
大きな借金を抱えていて貧しかった。
車などの保険等も解約したばかりだったらしく、
20年かけた車の保険のすら解約し、なんとかバブルでの投資の借金も
返しおえた直後のこの事故。
あたし達はまた、莫大な借金を抱えることとなった。
何かが、全てにおいて不幸だった。
困ったのは、脳梗塞なので、毎日点滴をしなければいけないという事実だ。
田舎だったので設備がなく、また家業もすぐにやめるわけにいかなかったので、
どうしても誰かが車に乗る必要があったのだけれど、
まともな運転免許をもっているのが父だけだったのだ。
結局、あたしは高校が終わると急いで家に帰り、父の横に座り、
左側に寄りすぎていないか、何か父に異変は無いかと常に注意をしながら、
毎日数時間の病院での点滴、何箇所にも渡る外回りと全て一緒に行動した。
ある日、仕事先から車に帰ってきた父が、細い電灯の柱に左腕を絡ませてしまい、
自分でとれずにもがいていた。あたしは慌てて駆け寄るのだけれど、
自分でやりたいらしく、もがいていたが、どうやってもとれない。
そして悲しそうな、困ったような、情けない笑い顔で、
「とってくれないか」と小さくあたしに言った。
あたしは父の前でできるだけ笑い、おどけ、できるだけ病気の事を考えない話をした。
友達との時間も、クラブも、バイトも、遊びも、関係なかった。
彼は左側が見えているのだけれど認識できない。
ご飯だっておかずだって左側半分は残してしまうので誰かが回してあげなければいけないし、
服も自分で着ようとすると絡んでしまうので着せてあげる。
情けなそうに笑う父にあたしは、毎日必死でおどけてみせた。
貧乏は底の底までいっていた。
主収入であった家業の仕事の能率は確実に下がっていたし、
なにより事故相手から法外な請求が半年以上続いたからだ。
食べるものも本当になくなっていた。
この時代に、食べるものが本当になかったのだ。
当時マクドナルドで働いていた長男が、ゴミ分別の際、
廃棄処分になったまだきれいなバーガーを、大量にゴミ袋に入れて拾ってきて、
家族で夕飯として毎日食べていた。
本当に毎日、家族で兄が持って帰ってくるゴミ袋を漁り、
冷めてぺちゃんこになったバーガーを、黙って食べていた。
あたしは学校ではお昼ご飯を食べず、
「ダイエットしている」と言っていたし、
テレビは壊れていたけど直すお金も無かったので、
学校でTVや流行の音楽の話が一番つらかった。
そして借金取りが毎日の様に来るようになる。
無粋にドンドンと窓を叩かれ、大声で名前を怒鳴られる。
家族が息を潜め、暗い部屋の中で呼吸音だけがこだまする。
あたしが少しでも動こうものなら母親に小声で怒鳴られるのだ。
「ばか!居るのがばれたらどうするの!!!!」
ここは、あたしの家ではなくなっていった。
やがて父の脳梗塞の症状は安定していく。
素晴らしいもので、欠損した脳梗塞部分の脳細胞は二度と生き返らないが、
その周りの脳細胞が補うらしく、リハビリも効果を出し、
彼は自分で服を着、ご飯もまわさなくても食べられるようになっていった。
その頃からあたしはバイトを始める。
あいかわらず貧乏だったけれど、やっと高校生らしい生活ができる様になっていった。
だが借金取りが怖かったあたしは、学校が終わった後からすぐ、夜の10時まで働いていた。
だから高校生としては十分な、月12万という額を貰っていた。
だがその生活も長くは続かなかった。
父がバイト先に不意に現れ、あたしのキャッシュカードを持っていくようになった。
あたしは父が現れただけで意図を察したし、不機嫌な顔でキャッシュカードを差し出した。
だが、たまの休みに友達と遊びに行こうとすると、
母に「たまには家に居なさい!!」と怒鳴られ、靴を隠された。
借金取りがくるからと忍び足で暮らし、真っ暗で、
ハンバーガーのゴミが散乱する陰湿なこの家に居ろというのだ。
我慢できず窓から裸足で逃げ出したら、
今度は窓にかなづちで釘を打たれた。
あたしは泣いて出してくれと頼んだけれど、
結局学校とバイト以外は出してもらえなかった。
ますますここは、あたしの家ではなくなっていった。
あたしは逃げ出したくて逃げだしたくて仕方なかった。
そして今の彼氏、もう付き合って今年で8年になるのだけれど、
今の彼氏に頼んで、同棲してもらった。
事情は恥ずかしくて話せなかった。
ただあなたと一緒に居たいとか何とか適当なことを言ったのだと思う。
そして彼は家賃補助の出る仕事を探し、あたしの望みを叶えてくれた。
TVが見れて、お風呂にいつでも入れて、電気をつけても怒られなくて、
誰もあたしを怒鳴らないし、ゴミのような冷たいバーガーを食べなくてもいい。
借金取りも来ない。
ここはなんて幸せなんだ!!!!
新生活の幸せはそんなレベルだった。
あそこは、実家は、もうあたしの家ではないと思っていた。
そんな家出にも似た出来事から数年後。
そんな父と母は相変わらず借金を重ねていた。
親戚中にも借りたらしく、額は軽く高級車が買える値段だ。
葬式やら何やらの際にあたし達一家がのけものにされるのも仕方ないのかもしれない。
みんな言った。もう無理だ、借りるな。自己破産しろ。
でも父は言う。「土地を守らねば。自分の代で潰すわけには行かない」
あたし達は何度も反論するのだけれど、そういった固定観念には宗教じみたものさえあり、誰の意見も聞き入れようとしなかった。
あたし達は、もう言うのさえ疲れてしまった。
そしてあたしが家を出て6年後、やっと、やっと自己破産してくれた。
その間つぎ込んだ金額を思うと頭が痛いが、
最期まで父は土地がとか代がとかに拘っていた。
家も売り、土地も売った。
昔は豪邸と呼ばれた、和洋折衷で独特な建築の家だった為、田舎の割りにすぐに買い手がついた。
あたしたちは柱に刻み込んだ成長の後なんかを写真にとって、
家族は実家から30km程はなれた、家賃2万のぼろ屋に引っ越した。
そしてそれから1年後。
父は胃がんになり入院する。病状は極めて悪く、手術する前から難しいといわれていた。
父には胃の調子が悪いと皆が説明していたが、手術をする前日、誰が告知するかでもめた。
結局誰もできず、先生に頼み込んで、告知してもらった。
彼は淡々と
「あなたは胃がんですが、手術すれば治ります。がんばりましょう」 といった。
父は小さな声で、「胃がん・・?胃がん・・・」 とだけ言った。
手術はある意味成功した。そして肝臓への転移が見つかる。
先生は手術室の隣の部屋で、
生まれてはじめてみる父の臓物を広げてあたし達に見せながら、
「もうこれ以上は無理です」と言い切った。
「もって一年、いえ、半年から一年です」
そしてそれからあたし達はずっと父に、
「がんは治ったんだよ!」と笑顔で嘘をつき続けている。
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