“Day by day, in every way, I’m getting better and better.”
「日々に、あらゆる面で、
私は益々よくなってゆく」
クーエの有名な暗示文です。
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昔。あたしが小学生の頃。
社会の先生が唐突に言った。
「人の人生は、どうなれば幸せなのだと思う?」
ある女の子は答える。
『お金持ちになること?』
今度はおどけた男の子が答える。
『きれいな奥さんもらう事!』
教室にドッと笑いが起こり、それが静まった頃、
社会の先生は続けた。
「そうだね。それも幸せ。でも、違う。」
不思議そうに見入る子供達に先生は続けた。
「人が幸せであったかどうかは、
その人が死ぬ時に何人周りに集まるかだ。」
「人脈こそが、幸せだ。」とも言った。
すると、今まで黙っていた一人の女の子が異を唱えた。
「じゃあ、何人集まったかでその人の幸せが決まるの?」
先生は答えた。
「そう。何人集まってくれるかで決まる。」
女の子は反論した。
「それは違う。それは、違う。
いっぱい居ても、だめ。
ほんとの心がなきゃ、だめ。
だから、人数じゃない。ほんとのこころだよ。
心から泣いてくれる人が一人でも居れば、
その人は幸せなんだと思う。」
先生はまさか10才の子に反論されるとは思っていなかったらしく、
面食らっていたけれど、適当な言葉を2、3吐いた後、
「授業に戻ろう」と言って急に逃げてしまった。
あれから14年経つ。10歳の小さな女の子だったあたしは24歳になった。
24歳になったあたしも、やっぱりその考えは変わってなくて、
人の幸せなんて、結局悲しんでくれる人の気持ちが、
本気であれば十分だと思ってる。
今あたしが死んだら、本気で泣いてくれる人の顔は浮かぶけれど、
両手で足りてしまう。
集まる人数も、多分それとあんまり変わらないんだと思う。
社会の先生が言う論理でいうなら、
あたしは「不幸せだ」と言う事になるけれど、
あたしは多分、幸せな顔して死んでると思う。
事実、あたしは今幸せだと感じていて、
また、本気であたしを思ってくれる人を、
両手いっぱい分しかないけど、幸運にも手に入れたから。
「人数じゃないよ、ほんとのこころだよ。」
小さい頃のあたしの声が聞こえた気がした。
社会の先生が唐突に言った。
「人の人生は、どうなれば幸せなのだと思う?」
ある女の子は答える。
『お金持ちになること?』
今度はおどけた男の子が答える。
『きれいな奥さんもらう事!』
教室にドッと笑いが起こり、それが静まった頃、
社会の先生は続けた。
「そうだね。それも幸せ。でも、違う。」
不思議そうに見入る子供達に先生は続けた。
「人が幸せであったかどうかは、
その人が死ぬ時に何人周りに集まるかだ。」
「人脈こそが、幸せだ。」とも言った。
すると、今まで黙っていた一人の女の子が異を唱えた。
「じゃあ、何人集まったかでその人の幸せが決まるの?」
先生は答えた。
「そう。何人集まってくれるかで決まる。」
女の子は反論した。
「それは違う。それは、違う。
いっぱい居ても、だめ。
ほんとの心がなきゃ、だめ。
だから、人数じゃない。ほんとのこころだよ。
心から泣いてくれる人が一人でも居れば、
その人は幸せなんだと思う。」
先生はまさか10才の子に反論されるとは思っていなかったらしく、
面食らっていたけれど、適当な言葉を2、3吐いた後、
「授業に戻ろう」と言って急に逃げてしまった。
あれから14年経つ。10歳の小さな女の子だったあたしは24歳になった。
24歳になったあたしも、やっぱりその考えは変わってなくて、
人の幸せなんて、結局悲しんでくれる人の気持ちが、
本気であれば十分だと思ってる。
今あたしが死んだら、本気で泣いてくれる人の顔は浮かぶけれど、
両手で足りてしまう。
集まる人数も、多分それとあんまり変わらないんだと思う。
社会の先生が言う論理でいうなら、
あたしは「不幸せだ」と言う事になるけれど、
あたしは多分、幸せな顔して死んでると思う。
事実、あたしは今幸せだと感じていて、
また、本気であたしを思ってくれる人を、
両手いっぱい分しかないけど、幸運にも手に入れたから。
「人数じゃないよ、ほんとのこころだよ。」
小さい頃のあたしの声が聞こえた気がした。
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