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“Day by day, in every way, I’m getting better and better.” 「日々に、あらゆる面で、 私は益々よくなってゆく」 クーエの有名な暗示文です。
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恐ろしく綺麗な月が出ていた。

月しか見えなかった。

黒猫があたしを見下ろして、にゃぉんと鳴いた。




子供の頃、冗談の様な田舎に住んでいた。

今考えればよく遊ばせたものだと不思議に思う程、

危険な場所にあふれた所だった。

大人たちはもちろん近寄るな、とは言うのだけれど、

柵を立てるわけでも見張るわけでもないので、

勇敢な勇者でもあり、無謀なピエロでもある子供達は結局遊んでしまう。


そんな子供達も、自ら危険を察知し、

近寄らない場所があった。

野性的で、本能的な怯え。

ケモノとして、とても怖かった。

そんなひとつが、「地下室跡」と呼ばれていた場所だ。


今にも倒壊しそうな木造建築の空き家が立ち並ぶ一角の外れに、

それはある。

あったというべきか。

上にあったのだろう家はすでになく、

あるのは、小さめの家程度の大きさの、四角い巨大な穴。


木造建築が立ち並ぶ田舎では珍しく、またそれらよりも古いだろうに、

なぜか、コンクリで綺麗に舗装されていた。

巨大な穴の深さは2メートル半。真ん中には一辺50cm程の、巨大な墓標のような、古く、薄汚れたコンクリ柱が建っていた。

土と、草のにおい、木造建築の並ぶそこで、無機質なそれは、

非常に奇妙で、不気味だった。

といっても2m半程の高さ。落ちても死なない。

大人が居れば上れるし、子供達でも数人居ればなんとかなる。

だが動物達にとって、その高さは生死を分けてしまった。

そこではよくいろんな動物が死んでいた。

無機質な薄汚れたコンクリの壁は動物達の爪を無力化し、

巨大な棺桶のような穴の中では声も響かない。

逃げる事も、誰にも会う事もなく、そこに落ちたものには、

ただただ平等に緩慢な死が与えられた。

不思議だったのは、その死体が、気がつくと綺麗になくなっている事だった。

保健所が来ていたのかもしれないし、近所の大人が片付けたのかもしれない。

白骨化するまではそこに居るのだけれど。

だがあまりにあたしは小さく、無知で、ただ不思議だった。


ある日早起きをしたあたしは、いつもとは違う道を通って小学校へと向かった。

ふと怖いものみたさの様な気持ちで、「地下室跡」を覗きに行ったのだ。

白い小さな、生まれて間もないであろう子猫が死んでいた。

あばら骨が透けて見える程やせ細り、恐ろしく緩慢な死であった事を思わせた。

助けを求め、泣いたのだろう。

朝も夜も、親猫を呼んで、呼んで、ただただ泣き続けただろう。

もしかすると、親猫が聞きつけてやってきたかもしれない。

だが愛する子猫は深い穴の中。

近くに居るのに、においはするのに、声はするのに

触れられず、助けることもできず。

子猫はだんだん声も出なくなり、目も見えなくなり、ゆっくりと、ゆっくりと、一人ぼっちで。


どれだけ寂しかっただろう。

どれだけ悲しかったのだろう。

胸がつまり、息ができなくなって、あたしは逃げ出した。


数日後、友達とかくれんぼをしていた。

地下室跡の近くだったので、気は進まなかったのだけれど、何かが漠然と怖い、と言う勇気もなかった。

その日、何かと負け続けていたあたしは、ムキになって隠れていた。

ふと気がつくと「地下室跡」の近くまで来てしまっていた。

ここにだけは隠れられないな、と思った瞬間、あたしの大切な、パンダ柄のボールが転がってしまった。

お気に入りの赤いボール。

そして必死で追いかけた拍子に、あたしは落ちてしまったのだ。

地下室跡に。


びっくりしすぎて声も出せなかった。

そこは、本当に別世界だった。

上から覗き込んで、見えていた白い子猫はほんの一部だった。

コンクリの柱の奥。上からは見えない位置に。

そこにははるかに多くの死体があった。

声を出すと、彼らが起きるのではないかと、奇妙な不安に襲われた。

跳ね上がる鼓動が落ち着くまで立ち上がる事もできず、

ただただ目の前の別世界を、いまや巨大な塀と化した「地下室跡」の壁を、

目を見開いて漠然と見つめていた。

おそらく上から見える位置で死んでいた動物達は、白骨化した後、消えた訳でもなんでもなく。

最終的に誰かの手によって、奥へ奥へと追いやられていただけなのだろう。

おそらく棒か何かで、無粋に。


その時唐突に、チャイムが鳴り響いた。

5時だ。

あたしはあわてて声を張り上げた。

チャイムの轟音で、張り詰めた空気に、やっと隙ができた。

どれくらい叫んだだろう。

だけれど誰も来てくれない。声もしない。

そしてふと気づいてしまった。

5時になれば、「かくれんぼ」をしている場合、みんな自主解散してしまうのだ。

あたしがここに居る事など誰も知る由もなく、帰ってしまう。

気づいた時には、日は落ちていた。


恐ろしくて、寂しくて、ただ不安だった。

どれくらいの時間が経ったのだろう。

3時間位経ってるのかもしれないし、30分位しか経ってないのかもしれない。

四角く切り取られた空と、綺麗な、そら恐ろしく綺麗なお月様の下。

薄汚れたコンクリの壁と、死体と、あたし。

あたりはもうとうに真っ暗だったのだけど、怖がりなあたしは意外にも泣いてはいなかった。

むしろ、物音ひとつ立ててはいなかったのだ。

ただただ隅っこに座り込んで、震えていた。

声を出せば、暗闇で青白く光る彼らが起きてしまいそうで。

怖くて怖くて、寂しくて悲しくて、震えていた。


さらに、どれぐらいの時間が経ったのだろう。

綺麗な月が、あたしを煌々と照らす。

奥の方の暗闇と青白く光る彼らのコントラストが増し、恐ろしさは増幅していた。

発狂しそうだった。


その時だった。

ふと真上でがさがさと物音がした。

跳ねるように飛び起きた。やった!!人だ!たすかった!

あわてて叫ぶ。

「たすけて!おちちゃったの!たすけて!」

返事は返ってこなかった。

変わりに、歓喜と絶望の入り混じった表情で見上げるあたしを、

黒猫が覗き込んでいた。




月が出ていた。

恐ろしく綺麗な、青白い月と、猫。

黒猫はあたしを見下ろした。

あたしが白い子猫を見下ろした様な目で、静かに、何も言わず、

ただあたしを見下ろしていた。

随分長い間、ただあたしを、緑色のビー球みたいな綺麗な目で、

静かに見下ろしていた。

あたしは動けず、声も出せず、ただ、怖くて怖くて、目が離せなかった。

四角い空と、綺麗なお月様と、黒猫の下。

薄汚れたコンクリの塀と、青白く光る白骨死体と、あたし。


ずっと一人ぼっちで不安だったあたしは、黒猫に思わず声をかけてしまった。

「こんばんは」

我ながら穴に落ちた人間の第一声ではないなぁと思いながら続けた。


「こんばんは・・?」


黒猫は、何も言わず、じっと見ていた。

それは気の遠くなる時間、あたしをじっと見ていた。

久しぶりに生きているものを見て少し元気になったはずのあたしに、

直感で寒いものが走った。

慌てて目をそらした時、

真横に横たわる白い子猫の遺体が目に入り、

冷たい薄汚れたコンクリの壁を見ながら、この子も息絶えたのだろうかと、

この仔はこうやって最後の時を迎えたのだと、本当に唐突に、考えていた。


恐ろしく綺麗な月が出ていた。

月しか見えなかった。

黒猫があたしを見下ろして、はじめて、にゃぉんと鳴いた。  
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